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歩いてきた道

2008 Herbst -

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かたちだけの愛 / 平野啓一郎

マチネの終わりに,がよかったので,こちらも読んでみました.
最近1Q84を読み返していたので,気分が恋愛小説に傾いているのかもしれません.


交通事故で脚を失ってしまった女優,久美子と,義足を作ることになったプロダクトデザイナーの相良(あいら)の物語.

誰かを段々知っていくようになると,好きになっていくということはあると思う.
それでも,久美子の事故前から持っていたと思われる破滅的な方向性は,
自立できていない感じがあって,それほど魅力的ではなく,
結局相良が久美子に惹かれていくのは,その身体の美しさ故なんだろうな,
と思わせてしまう時点で,恋愛小説としては未消化感が残ってしまう.
まあ,プロダクトデザイナーというのは美を作り出す仕事で,
彼女が美をそもそも持っているとしたら,そこに惹かれて好きになってしまう,
というのは大いにあり得ることだと思うけれども.


しかしそれとは別に,障害者になってしまった人の葛藤については興味深かった.
生きがいを失ってしまった後に,人間として卑屈になってしまいがちな時に,
どのように感じ,どのように扱われたくないと思うものか,
その,彼らがコンプレックスに思ってしまうものを裏返すことはできるのか.
愛するということに含まれる,献身と身勝手さ.思いやりと独りよがり.
相手に自分のことを見てほしいという気持ちと,
相手が自分を見ずに没頭してほしい,という気持ち.

これは平野啓一郎の分人主義を小説にしたものであって,
それは,最後に,相良が,久美と一緒にいる時の自分が好きだ,と思い,
そして,久美も,相良といる時の彼女を好きだと思って欲しい.
それこそが愛なのではないか.
という所に表れている.



障害者について考えている友人に,この小説のことを知らせようかと思ったが,
その後,インランということになっている相良の母の名前が出てきて,
なんだか吹いてしまって,まあ,いいか,という気分になった.






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マチネの終わりに / 平野啓一郎

毎日新聞で連載されていたという,平野啓一郎『マチネの終わりに』を読んだ.

平野啓一郎の作品はそれ程多く読んでいる訳ではなく,『日蝕』で挫折して,『空白をうめなさい』は読了した,という程度か.
作家自体に興味がある,という状態ではまだないので,文体の変化の理由などはわからないが,取敢えず,読みやすい恋愛小説であることは確かである.

--- ネタバレを多少含みます ---


天才クラシックギタリスト蒔野38歳と,ジャーナリスト洋子40歳が出会う所から話は始まる.

作家本人が,家族を持ち40代を生きる上で,考えていることが反映されているのだろう.

「天才」の男性と「サラブレッド的血筋を持った」凛とした女性の恋物語,なんて,設定が濃く,途中で起きる事件も時に現実味が薄くて,メロドラマ風だったりはするのだけれど,そこに仮託されて描かれている心情は,そう突飛なものではない.そもそも歌舞伎にせよシェイクスピアにせよ,大衆に訴えかけるものには,日常とはかけ離れた設定の人物に自分たちの感情を載せる,という形式があるのだから,それはそれでありなんだろうとも思う.

この小説が,白石一文の小説よりも信頼できるのは,登場人物がはっきりと迷い,人生を俯瞰せず,その時点毎に悩んで選び取るという姿勢を持っているからだ.運命の人にはいつかきっと会える,という直観を信じて生きる,というようなことはしない.

そして,この小説の肝は,運命の人とは必ず結ばれる,というようなことではなくて,過去は未来から書き換えることができる,ということなのだと思う.きつい経験も,ある時,別の意味をあて,別の物語の一部になるかもしれない.そういう繊細さを見てみないふりをせずに,きちんと表現しきっている所がいい.

これは小説で,作家に,明るい話を書きたいという気持ちがあったから,最後に運命の二人は出会う所で終わる.しかし,その直前の最後のNYのコンサートの場面ですら,洋子は,蒔野が自力でスランプを克服しより広い世界に自分なしで到達したことを感じ,もう会うべきではないのだ,とはっきり悟っている.それは「おめでとう」という気持ちと同時に,寂しさがあった筈だ.自分は彼の人生に要らないのだな,と.そこで,蒔野が勇気を持って手を伸ばし,二人はもう一度会うことができるのだ.

その後,二人がどうするか,というのは,明らかではない.もうそれぞれに背負うものがあるのだ.蒔野は,家族を引き受けた上でスランプを脱出するが,その家族を捨てる決心ができるのか.洋子は,自分のさびしい生い立ちを持ってしても,他人の娘に同じ思いをさせることを選べるのか.
でも,これからがどうなるかわからなくても,この会合の一瞬は,二人の過去を書き換え,その後も多分心を温められる記憶となっていくのだろう.

或いは,それぞれが,それぞれの背景を全てひっくるめたまま,受け入れる,という形もあり得るのだろうか.
....それは少し愛というものについて楽観的過ぎるようにも思う.やはり自分こそがその人の一番近くにいたい,と思ってしまう要素は,抜きがたいように今は思われるから.


蒔野の妻となるマネージャーの三谷は,蒔野を手に入れたい余り,卑怯な真似をしてしまう.そのことについて非難する人がいるだろうし,自分はその行動自体はしないと思うけれど,でも,彼女の愛の本気の顕れだったのだと思うと,責める気持ちにはなれない.
彼女はその罪を告白しないことで,ずっとそれを引き受けて生きていたが,子供ができた時,彼女は変わろうと思ったのだと思う.彼女の役割は,蒔野だけの名脇役ではなくて,娘にとっての名脇役にもならなくてはならなくなったから.

そういう,彼女自身が選び取って,たとえ衝動であっても,選び取った決断の責任をとっていく,という生き方は,洋子と同様に,やはり尊いものに思えるのだ.


面白いのは,洋子が,夫となり後に浮気されて離婚するリチャードからは,冷たいと非難され,映画監督である父親からは,やさしすぎて背負いすぎないように心配される,ということ.どちらも,同じ洋子なのだ.


正直,読んでいる間,苦しい気持ちにもなった.
蒔野や洋子に感情移入するのは勿論,振られてしまうリチャードや三谷(は一応振られてないのか)にも,自分の欠片を見てしまうから.その時愛している人,自分が運命の人だと思っている人にとって,運命の人は自分ではない,ということは,起こり得ることだ.その,かなしさややりきれなさ.最早10代ではない登場人物たちは,それぞれに色々なものを抱えて生きているのだ.


小説で触れられている音楽が,クラシックギター曲が多く,私の好みだったことも大きいかもしれないが,丁寧に描かれた素敵な小説だと思う.今を生きるアラフォーの人々に.




1Q84 Book 3

まだ読んでいないと言ったら,親友が,Book 3を送ってくれたので,読んだ.
日本でどれくらい話題になったりしたのかは知らないし,
Book 1, 2にしても,友人から借りて読んだきりなので,記憶は曖昧だ.
(こちらでは日本語の本は本当に貴重品なのだ.それが実務と絡まないならなおさら.)


Book2までの読後感で,『1Q84』は,久しぶりにとてもいいなあ,と思ったのを覚えている.
力作だ.本気だ.真向勝負だ.そういう感じ.

物語を紡ぐということ,
当然村上春樹にとっての物語を紡ぐということは, 生きることそのものと直結する営みである.
何かに縛られているということ,誰かの物語に飲み込まれてしまうということ.
それは,簡単に,頻繁に,起こるということ.
その呪縛を破って先へ進むということ,
自分の手で,自分の世界を作るということ.
自分で物語を紡ぎ,それを信じることで補強していくということ.

人は,概ね自分の見たいものしか見ないので,
私にそう見えたということは,
今の(その当時の)私にとってそういうことがキーだったということである.

さて,時間をおいて,Book 3を読んでみた.
...これは,必要だったのかなあ....
青豆がひきがねをひかなかったのはよかった.
牛河さんに対するあわい愛情のようなものも,微笑ましい.
けれど,天吾と出会い手を握ることで, 世界から抜け出したりできるものなんだろうか.
タマルや老婦人や牛河さんに欠けていたもの.

子供をもったことのある人なら,
別の言い方をすれば,
理不尽に他の何を擲ってでも守りたい何かをもっている人なら,
Book 3はしっくりくるのかもしれない.

他人の干渉によって自分の世界が変わったり拡がったりするだけでなく,
自分が相手に積極的に干渉することに意味を見出す,
誰かを自分の世界の内部に丸ごと取り込む,
そういう時の,ものごとのあり方のようなもの.

今の私には(まだ)そういうことたちがテーマになっていないということなんだろう.


それが,まだ,だったら,いいな,とも思う.



第4の神話  篠田節子

病で亡くなった女性大衆小説家の評伝を書く女性フリーライターの物語.

バブリーな小説家に対して,反感とやっかみを感じていたフリーライターは,
彼女の周りの人の話を聞き進めるにつれ,彼女の人生に引き込まれていく.

途中,第3の人生で脱稿しようとすると,
読後感が悪い,
これは何のために書いたのか,読者は何のためにこれを読むのか,と突き返される.
そこには,メタに著者の誠意のようなものを感じる.

派手やかな表の顔,それの裏に潜む一見真実かに見える裏の顔,
さらには,それらを締める最後の暖かな終わり方.

第4の神話が,真実なのではない.
第5,第6の神話があるかもしれないし,
これらは自らの人生を自らの作品として仕上げた小説家の,
フリーライターによる読み換え,新しい別の作品,にすぎない.

大切なのは,それを書くことによって,それを読むことによって,
その後どのように変わるか,変われるかなのか,なんだろう.
必ずしも劇的な変化ではないにしても.

残念ながら,この小説にはそういう効果はなかったけれど.

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森瑤子さんという人をモデルとしているらしい.
森瑤子さんというのは,一時すごく流行ったかっこいい女,だそうだが,
私は全然読んだことがない.

ただ,旦那さんが借金をたくさん作っていた,とか,
華やかな社交関係とか,娘さんが死後暴露本(とは銘打っていないが)をだしたこととか,
この小説で扱われる女性小説家とは符合するところがかなりあるので,
多分,モデルにしているのは確かなことなのだろう.

この流れで森瑤子だとわかるような人たちに向けて書かれたものだと想定すると,
死後,娘により,本人が書かなかった裏側を暴露されたこと,
それによってあたかもそれこそが真実であるように扱われることに対して,
それすらも神話にすぎず,さらにその奥の,と見せかけて,その奥の,事実だってあるのだ,
と相対化しているかのように見える.
そうすることで,森瑤子さんへのレクイエムのようにすら見える.


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ところで,黒執事を見ていると,紅茶を飲みたくなる.



1Q84

青豆の最後,ゴムの木のこと.

青豆は,10歳のときに自分で証人会から抜け出したが,それでもお祈りの言葉を事あるごとに唱える.老婦人のカルト的考え方にも,比較的無反省に参加してしまう.ストイックに身体を鍛えるのは,ともすれば,自分を規律で縛りたくなる傾向を表しているかもしれない.(それ自体は,必ずしも悪いことではない.善悪はつねに入れ替わっているのだし,その「信じる」力によって実現されることも多々ある.青豆が魅力的に映る人だってたくさんいる.)彼女は比較的,信じる力が強い人間なのだと思われる.勿論それは証人会の両親を持つという出自の影響もあるのかもしれない.ドウロのないところは歩けない.何かを信じなくては生きていけない.

彼女が引き金にかけた指に力を入れるとき,リトルピープルが周りにいる.ほうほうとはやしている.彼らは青豆の弱さ,空白につけこんで自殺に追い込んでいるのだ.

なんのために?リーダーは,青豆がリーダーを殺せば,リトルピープルが天吾を殺す意味がなくなるのと同時に,さきがけの組織が青豆を追って殺すだろう,と預言した.素直に考えれば,リーダーを殺された狂信的なさきがけ信者が,物質的に青豆を殺すのではないかと思われるのだけれど,実はリトルピープルが青豆を殺したのではないか.リーダーの言葉(約束)自体が,一つの物語となって青豆を支配し,彼女はその物語に沿って幸せに死のうとしているのではないか.


ゴムの木は,高速道路の非常階段を降りるときと,終盤の2回出てくる.その描写は哀れなものなのだけれど,妙にあたたかみがある.(そう思ってしまうのは,自分が東京で一人暮らしをしていた時に,哀れなガジュマルを育てていたから?)それは,青豆が天吾の物語の世界1Q84に入り込む入口に置かれていた象徴的なものであり,青豆を動かそうとするいかなる物語(老婦人の物語とも,リーダーの物語とも)とも無関係な,独立した彼女が選びとった記憶である.そもそも買いに行った金魚は,閉塞した空間の中を知らぬ風に泳ぎ回る様が,少女の頃の彼女を思い起こさせ,買うことができなかった.それは多分,今の彼女にも共通する部分があるのだ.そして,その対照としての,閉じ込められていないゴムの木.孤独な部屋に残してきてしまった,あわれなゴムの木.


ゴムの木のために泣いて泣き終わり,自分を立て直した時に,言いかえれば,自分の物語を設定しなおした時に,公園の滑り台に天吾の姿を見つける.もう一度物語は土台を揺さぶられる.でも彼女は,天吾に幸せに出会う物語を俄かには信じることができない.怯え.そして恩寵は通り過ぎる.彼女は自分自身にこれでよかったのだと言い聞かせ,死ぬ決意をする.そして,1984年に戻る道はないのだというリーダーの物語を確認して,つまりはリーダーとの約束を補強して,にこやかに死んでいく.リトルピープルに見守られて.

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ふかえりは,青豆がこの世界(1Q84)のどこかで天吾をみつける,と言う.ふかえりが知覚し,天吾が受け入れるのだと.確かに青豆は天吾を見つけたけれど,この場合は天吾が青豆を見つけられなかったことに対して,心配しなくていい,と言っているので,実際に二人が「会う」ことを想定しているのだと思われる.


天吾は父親に向かって,彼自身の物語を語る.それは,彼自身の空気さなぎを作る作業.彼は,ずっとネガティブに捉えてきた自身の過去を受け入れる.そしてできた空気さなぎを目にした時,再び彼は怯える.母の戸籍を調べなかった時と同じように.青豆を探さなかったのと同じように.しかし今度は逃げない.その中には,10歳の眠っている青豆が入っている.それは,彼の物語,1Q84だ.天吾が青豆の名を呼ぶと,それは青豆にも聞こえる.遠い場所で.青豆の返事は,今はまだ天吾には届かない.
青豆は,天吾の物語の読者(レシヴァ)なのかもしれない.

はっきりとはわからないけれど,天吾が怯えを克服したことによって,1Q84という物語は書き変わるのではないか.原因と結果は常に錯綜している.青豆を探す手立てを持たなかった天吾が,強く彼女を探す決意をすることで,彼女が読者として天吾を見つけるのではないだろうか.




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