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歩いてきた道

2008 Herbst -

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自分や関係を大切にするということ

相手のことを大事にする関係と,
相手を自分の都合に合わせて振り回す,相手を軽く扱う関係.

例えば少しでも長く誰かと一緒にいたくて,
でもその人は忙しくて早く帰りたいと思っているとして,
そこで自分の気持ちを抑えて,お開きにするのが,
相手を大事にする関係なのだろうか.

次にいつ会えるかわからない時に,
折角会えたら少しでも長く一緒にいて,少しでも相手のことを知りたい,
と思ってしまうのは,自然な気持ちだとも思うけれど,
多分,それでも相手のことを考えられる方が,結局は次につながるのかもしれない.



誰かを好きだと思い,誰かのことを知りたいと思うことと,
その人にいいことをしたい,幸せにいて欲しいと思うことと,
その人に自分を好きになってもらいたい,と思うことと,
その気持ちが自己承認欲求に過ぎないのではないかという危惧と.

誰かと一緒にいたい,という気持ちと,
一緒にいない間にかっこよくなっていたい,という気持ちと.

自分が傷つかない為に,行動することに臆病になることと,
相手の迷惑を考えて行動しないことを選択すること.


個人的な傾向として,
自分が傷つくかもしれないという恐怖に打ち勝って無謀になることは
実はそれ程難しくはない.
でもそれは多分,自分を大切にする,ということとはきっと違う.
相手との関係を大切にする,ということともきっと違う.


多分,自分ができることを自分の側で積み重ねて,
自分の思う形で自分の魅力を高め,
一方で,いつか,相手の迷惑にならない形で,行動する勇気を出すこと.









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粘着気質.執着.2

承前.


相手のことで頭をいっぱいにするよりも,
自分のことを充実させて,自分を魅力的に育てていく方が,
結局は,もしかしたら,の可能性は拡がるのだ,
ということは頭ではわかっている.
そして,もしかしたら,がだめだと確定しても,
自分にとっては糧になるのだということも.

それに,相手のことを見つめすぎてしまうよりも,
一緒に並んで前を見たい,かっこいい,この人といたいと思って欲しい,
というのも,本心なんだ.

相手を振り回すことは,結局相手に振り回されることと同じ.
自分の中に自分の中心を取り戻すことを考えた方がいい.


依存心は,愛されたいという気持ち,だと言う.
しばしば親からの愛情不足に理由を帰着させがちだけれど,
少なくとも私に関しては,それは当てはまらないように思う.
(勿論ずっと先に,実は親の愛情のあり方が間違っていると考え直すこともあり得る.)

母が最近話していたこと.
彼女はずっと自分のことが大好きで,
それなりの年齢になった人生のある場面で,苦しい時期が長く続いて初めて,
自分の中の醜さに気づき,
自分をそれ程好きでいられなくなってしまった,自信を失ってしまった,と.
今は自分のことが好きでいられている人も,ある時そうでなくなる瞬間が来るかもしれない.
寧ろそこからこそ,人生の戦いのようなものは始まるのかもしれない.

親の育て方によって,予め,自尊心を持って生きられるかどうかが決まってしまうなんて,
私にはどうも信じたくない仮説に思える.
そんなのを押し付けられる親もかわいそうだ.
どうやったって正解なんてわからないんだから,
常に強烈な不安を抱えて子育てすることになってしまうだろう.
ある程度大人になってしまったら自分の人生を変えられない,
なんていうのも絶望的な仮説に思える.

勿論,ひどい虐待を受けて育った人の気持ちは想像しきれないし,
親に愛されて育った人の奢りだと言われれば,そうかもしれないけれど.


誰だって,自分を愛するという課題に向き合うことがあり得る.


相手を支配することで自分の価値を確認するのではなくて,
誰も見ていない真っ暗なところで,自分ひとりで笑えるようになること.
敬愛する友人Yは,30歳になった時に,
自分ひとりで愉しめるようになろうと思ったと言っていた.
私はそれより随分気づくのが遅いけれど,遅すぎることもないだろう.


ネット上で見つけた言葉.
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相手に直接ぶつかる勇気を持たず,いくら相手の「情報」を集めたところで相手の心に触れることは出来ない.相手の「動向」を知って相手を「知った気になっている」だけ.そしてそれは結局のところ「相手にぶつかって拒絶され傷つきたくない自分」を守っているだけ.
相手と向き合うためには,「自立心」を培うことが必要.
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自立心を培う為には,地道に,自分がなりたい自分に少しずつ近づいていくしかない.
何かを掴む.それができた自分を褒めて認める.そしてまた頑張る.

私は気が短くて移り気で,
何かができた時に,自分のできたことを褒める,という過程をスキップしてしまいがちだ.
そうしているといつも,できていない所ばかり見ていることになってしまう.
何かができた時に,それを認め,味わう練習.




今回の恋心はたとえ実らなかったとしても,
実は失われるものはそれ程ないのかもしれない.
自分の中の支配への傾向,まだ解決されていない依存心,について
考えるきっかけになったのはよいことだろう.

あー言葉が滑ってしまいそう.

「愛するとは,半分の確率で食べられてしまうこと」ではない,
それでも友情とは違う,愛すること,があり得るだろうか.


インターネットなんて,人の暗部に簡単に巣くうドラッグで,中毒になる,
没入することは快楽で,でも正気でいたい気持ちもある.
そういう誘惑の傍で,それを気にせずにいられるようになれるだろうか.




好きな人がいることは,楽しい.
世界のあちこちにその人の欠片を感じたりして,
それまで見えなかったものが見えてきたりするから.

相手を好きになったのも,なによりも,
その人が,面白くて,真面目で,一生懸命で,眩しく思えたから.
自分と似ている所がある気がして安心する,ということもあったけど.
相手の良さを感知できるということは,そこにアンテナが張られているからで,
それが同じ方向であれ反対方向であれ,
関心の方向が似ているということなのかもしれないと思う.

望むらくは,相手がしてくれることの為じゃなく,
その人がその人らしく歩んでいるから,それがきれいだと思うから,
近くで見ていたい,一緒にいたい,
その気持ちだけを抱えていられますように.


あぁ,やっぱり滑ってしまった.

BGM は illion BANKAのリピート.





自分の怠け癖が,一番自分を損なっている.
けれど,枠に嵌められるのは,例え嵌めたのが自分であっても,嫌だ.
我慢する快感.達成感.
誰も努力の成果なんて評価してくれなくて,
それでも歩き続けること.

怠け癖を,システム化しすぎずに少しずつ改善していく,
そしてそのことを自分で評価していく,そういう癖を.

そうしたらきっと,自分をもっと信じられる.
そうしたらきっと,もっと一人で立てる.
仕事でも誰かが言う言葉を受け流せるようになれる.

自分との約束を守る.
自分に対して,敬意を払う.
自分がなりたい自分であるかのように振る舞う.







粘着気質.執着.

自分は少なからず,ストーカー気質,或いは粘着気質である.

恥を忍んで,しかし詳らかにする方が自分の為と思うので書くが,
昔好きだった人や今気になる人をネット検索したりすることがある.
その程度みんなやっているが言わない,のかもしれないし,
みんな忙しくてそんなことはしていないのかもしれない.わからない.

他人に迷惑をかけない範囲なら,相手に知られなければ,
なかったかのように振る舞うことができる.
しかし,事実は自分が知っている.自分からは逃れられない.
自分の面倒くささ,粘着質は,多分どこかで嫌いじゃないと思ってもいるが,
同時にやはり,気持ち悪いとも思っている.

相手に知られたら,相手が自分をよく知らない人なのだったら,
やっぱり嫌われても,気持ち悪いと思われても,引かれても,
仕方ないと思っている.

自分が同じことをされたらどうだろう.
勿論相手にも依るが,相手の気持ちが理解できるだけに,少し嬉しい気もしそうだ.

多分,どこかで,自分に似た,こういう自分のままで受け入れてくれる人を求めている.
しかしそれは結局,共依存への道,なのかもしれない.

共依存は経験がある.お互いに切り刻んで血みどろになってしまう.
どうしたら,共依存から逃れられるのだろう.




最初の一歩は,被支配の立場から自分の足で逃げ出すことだった.
ずっと長いこと,無気力で無感覚になってしまう程,
自分が全ていけないんだ,と思い込んでいて,
相手からの言動が全て自分を責める神の言葉のように聞こえて,
びくびくして,どう生きていいかわからず,自分を見失っていた.
当然のように,誰も好きになれなかった.

長いことそういう穴倉の中にいて,ある時やっと,
自分が本当に委縮していて,被支配の立場に立ってしまっていることに気が付いたのだった.
あ,モラルハラスメントの被害者と同じメンタリティだ,と.
それは相手がモラルハラスメントの加害者であるかどうかとは関係なく.


そこから少しずつ自分を取り戻していって,
少しずつ自分の生活を積み上げていくことを練習して,
少しずつ自分を大事にすることを練習して,
そうしてようやく,好きな人ができた.
あぁ,久しぶりに,本当に久しぶりに,
ちょっと素敵だな,いいな,よりもう少し,好きになっちゃいそうだなと.


でもそうしたら,その人のことをもっともっと知りたくなってしまって,
相手の言動や状況から客観的に考えたら可能性は極めて薄いのに,
例えば今ですら,可能性はない,と書けない位に,
もしかしたら,が欲しくなってしまって.

それでも,格好はつけたくて,大人ぶりたくて,
傷つきたくなくて,現実を見たくなくて,
未来にあるかもしれない,小さなもしかしたらの芽を取っておきたくて,
幾らでもみつかる言い訳を並べては,自分から行動はしない.
相手に恋人がいる,年が違う,住んでいる場所が遠い,
将来の業界が近い,相手が面倒に思う,エトセトラ,エトセトラ.


自分から行動しないのは自分の勝手だが,
妄想で相手と無関係に気持ちが先走ってしまって,
実際に相手と面と向かわずに,裏で執着してしまう.

そういうことは,もしかしたら,
相手を支配したい,という気持ちと関係しているのかもしれない.

多分,ここに次の一歩がある.
被支配側からの脱却の次は,支配側からの脱却.


続く

かたちだけの愛 / 平野啓一郎

マチネの終わりに,がよかったので,こちらも読んでみました.
最近1Q84を読み返していたので,気分が恋愛小説に傾いているのかもしれません.


交通事故で脚を失ってしまった女優,久美子と,義足を作ることになったプロダクトデザイナーの相良(あいら)の物語.

誰かを段々知っていくようになると,好きになっていくということはあると思う.
それでも,久美子の事故前から持っていたと思われる破滅的な方向性は,
自立できていない感じがあって,それほど魅力的ではなく,
結局相良が久美子に惹かれていくのは,その身体の美しさ故なんだろうな,
と思わせてしまう時点で,恋愛小説としては未消化感が残ってしまう.
まあ,プロダクトデザイナーというのは美を作り出す仕事で,
彼女が美をそもそも持っているとしたら,そこに惹かれて好きになってしまう,
というのは大いにあり得ることだと思うけれども.


しかしそれとは別に,障害者になってしまった人の葛藤については興味深かった.
生きがいを失ってしまった後に,人間として卑屈になってしまいがちな時に,
どのように感じ,どのように扱われたくないと思うものか,
その,彼らがコンプレックスに思ってしまうものを裏返すことはできるのか.
愛するということに含まれる,献身と身勝手さ.思いやりと独りよがり.
相手に自分のことを見てほしいという気持ちと,
相手が自分を見ずに没頭してほしい,という気持ち.

これは平野啓一郎の分人主義を小説にしたものであって,
それは,最後に,相良が,久美と一緒にいる時の自分が好きだ,と思い,
そして,久美も,相良といる時の彼女を好きだと思って欲しい.
それこそが愛なのではないか.
という所に表れている.



障害者について考えている友人に,この小説のことを知らせようかと思ったが,
その後,インランということになっている相良の母の名前が出てきて,
なんだか吹いてしまって,まあ,いいか,という気分になった.






マチネの終わりに / 平野啓一郎

毎日新聞で連載されていたという,平野啓一郎『マチネの終わりに』を読んだ.

平野啓一郎の作品はそれ程多く読んでいる訳ではなく,『日蝕』で挫折して,『空白をうめなさい』は読了した,という程度か.
作家自体に興味がある,という状態ではまだないので,文体の変化の理由などはわからないが,取敢えず,読みやすい恋愛小説であることは確かである.

--- ネタバレを多少含みます ---


天才クラシックギタリスト蒔野38歳と,ジャーナリスト洋子40歳が出会う所から話は始まる.

作家本人が,家族を持ち40代を生きる上で,考えていることが反映されているのだろう.

「天才」の男性と「サラブレッド的血筋を持った」凛とした女性の恋物語,なんて,設定が濃く,途中で起きる事件も時に現実味が薄くて,メロドラマ風だったりはするのだけれど,そこに仮託されて描かれている心情は,そう突飛なものではない.そもそも歌舞伎にせよシェイクスピアにせよ,大衆に訴えかけるものには,日常とはかけ離れた設定の人物に自分たちの感情を載せる,という形式があるのだから,それはそれでありなんだろうとも思う.

この小説が,白石一文の小説よりも信頼できるのは,登場人物がはっきりと迷い,人生を俯瞰せず,その時点毎に悩んで選び取るという姿勢を持っているからだ.運命の人にはいつかきっと会える,という直観を信じて生きる,というようなことはしない.

そして,この小説の肝は,運命の人とは必ず結ばれる,というようなことではなくて,過去は未来から書き換えることができる,ということなのだと思う.きつい経験も,ある時,別の意味をあて,別の物語の一部になるかもしれない.そういう繊細さを見てみないふりをせずに,きちんと表現しきっている所がいい.

これは小説で,作家に,明るい話を書きたいという気持ちがあったから,最後に運命の二人は出会う所で終わる.しかし,その直前の最後のNYのコンサートの場面ですら,洋子は,蒔野が自力でスランプを克服しより広い世界に自分なしで到達したことを感じ,もう会うべきではないのだ,とはっきり悟っている.それは「おめでとう」という気持ちと同時に,寂しさがあった筈だ.自分は彼の人生に要らないのだな,と.そこで,蒔野が勇気を持って手を伸ばし,二人はもう一度会うことができるのだ.

その後,二人がどうするか,というのは,明らかではない.もうそれぞれに背負うものがあるのだ.蒔野は,家族を引き受けた上でスランプを脱出するが,その家族を捨てる決心ができるのか.洋子は,自分のさびしい生い立ちを持ってしても,他人の娘に同じ思いをさせることを選べるのか.
でも,これからがどうなるかわからなくても,この会合の一瞬は,二人の過去を書き換え,その後も多分心を温められる記憶となっていくのだろう.

或いは,それぞれが,それぞれの背景を全てひっくるめたまま,受け入れる,という形もあり得るのだろうか.
....それは少し愛というものについて楽観的過ぎるようにも思う.やはり自分こそがその人の一番近くにいたい,と思ってしまう要素は,抜きがたいように今は思われるから.


蒔野の妻となるマネージャーの三谷は,蒔野を手に入れたい余り,卑怯な真似をしてしまう.そのことについて非難する人がいるだろうし,自分はその行動自体はしないと思うけれど,でも,彼女の愛の本気の顕れだったのだと思うと,責める気持ちにはなれない.
彼女はその罪を告白しないことで,ずっとそれを引き受けて生きていたが,子供ができた時,彼女は変わろうと思ったのだと思う.彼女の役割は,蒔野だけの名脇役ではなくて,娘にとっての名脇役にもならなくてはならなくなったから.

そういう,彼女自身が選び取って,たとえ衝動であっても,選び取った決断の責任をとっていく,という生き方は,洋子と同様に,やはり尊いものに思えるのだ.


面白いのは,洋子が,夫となり後に浮気されて離婚するリチャードからは,冷たいと非難され,映画監督である父親からは,やさしすぎて背負いすぎないように心配される,ということ.どちらも,同じ洋子なのだ.


正直,読んでいる間,苦しい気持ちにもなった.
蒔野や洋子に感情移入するのは勿論,振られてしまうリチャードや三谷(は一応振られてないのか)にも,自分の欠片を見てしまうから.その時愛している人,自分が運命の人だと思っている人にとって,運命の人は自分ではない,ということは,起こり得ることだ.その,かなしさややりきれなさ.最早10代ではない登場人物たちは,それぞれに色々なものを抱えて生きているのだ.


小説で触れられている音楽が,クラシックギター曲が多く,私の好みだったことも大きいかもしれないが,丁寧に描かれた素敵な小説だと思う.今を生きるアラフォーの人々に.




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