
2008 Herbst -
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
なんとなくではあるが,自分はイタイ人だと思う.
誰かといる時はまだましではあるが,本質的にイタイ部類だ.
イタイ人というのはどういう人だろうか.
他人からそう見える以上に自分をよい,美人だ,などと思っている人,ではないだろうか.
他人に対して気づかいができている時なんかは,イタクはない.
結局,自意識過剰,客観性の欠如,ということだろう.
自意識が過剰な割に,
ダイエットができない,部屋が片付かない,などの
自己制御の甘さ,そのことへの無自覚,などもある.
多くの問題は同根なのである.
仕事の絡まない所で人間関係で私から腹を立てることはかなり少ないが,
仕事が絡むとそうはいかない.
今までと別の上司とのプロジェクトが幾つか始まったが,
どのように付き合えばいいのかよくわからなくて戸惑ったり怒ったりしている.
一番困るのは,いつ事務所にいるのかよくわからないということ.
突然前触れもなく1週間の休暇をとったり,自宅待機していたりする.
それではこちらとしても,いつ打合せをするかの算段がつけられない.
そして随分遅くなってしまった時点で話をすると
こちらがどういうことをしているかを理解しようとせずに自分の感覚で話をする.
そういうことは先に言ってもらわなくては困るのだ.
そしてもっとやっかいなことに,その専門家的感覚が極めて狂っている.
「計算なんかに頼らず,専門家としての感覚を身につけねば」
と言うが,その本人の感覚が全然狂いまくっているんである.
私よりも随分経験があるはずなのに,今まで何してたの?
打合せには部下を連れて行かない.
それはコストの面などの問題もあるのだろうが,それなら結果をきちんと伝えてもらわなくては困る.
なのに,その結果の情報伝達が不十分である.
情報を十分に伝えるには,当然本人の時間が余計にかかるのである.
忙しくてその時間がないなら,打合せに部下を連れていくべきである.
極めて重要な打合せ結果を,先方から教えてもらうような形になっていたりして,
まったくもって恥ずかしいことこの上ない.
また,約束を守らない.
取引相手から2か月も前に送られてきた書類の返信を,
何度も催促があるのにしない.
そういうことは会社としての信用問題である.
確かに忙しいのだろう.
常に,なにかの文書を書いたり,電話したりしている.
しかし,しばしば自宅待機していたり,休暇をとっていたりすると,
どうも説得力に欠けてしまう.
せめて1日10時間働いてから,忙しい,という言葉は使ってほしい.
さらに,忙しいなら忙しいで,それでまわるように組織を組み立てる必要がある.
忙しいことは,外部に対するいい訳にはならないのだ.
専門的な理論の話につきあってくれるのはありがたいが,
上司としてはどうなんだろうか,と思わざるを得ない.
まあ,そんなことを言った所で,
なにもかもパーフェクトな場所なんてある筈もなく,
ここでなんとかやりくりしていかなくてはならない.
ここ数日,鳥がベランダに来ている.
むくすけ,と呼んでいる.
よい兆しならいいなと思う.
日常があたふたしていると,耳を澄ますことを疎かにしがちだ.
日常を一生懸命にしていれば,それが積み重なっていくだろう,という手ごたえはある.
けれど同時に,少し静かな時間を持って,自分を方向付けていかなければと感じている.
誰にでも,人生を考えさせられるきっかけとなる事件はある.
私にとっては,オウム事件は大きかった.
阪神大震災や911よりずっと.
それは,自分の身の回りで起きたということもあったけれど,
それ以上に,これがなかったら,自分が何かに傾倒してしまっていたかもしれない,
自分にはそういう傾向がある,ということを強く意識させられたからだと思う.
その後,オウム事件の被害者のこともある程度知るようになったけれど,
当時感じた,信者の人たちやひいては麻原ショウコウは,他人ではない,という感触は,
今も強く覚えている.
311の東日本大震災は,それに匹敵するインパクトがある事件であるような気がする.
政治的であるということに対する否定的なものの見方の否定.
よく,政治的であるには,どうしたらよいのだろうか,というテーマ.
最早大人になって,社会の一員であるということは避けて通れない問題になった.
社会を作り動かしていくのは私たちなのだ.
身体についても考える.
このところ身体が弱っていることを感じることが多い.
根性も結局は身体に影響されるものだ.
身体を鍛えるのは性に合わないのだけれど,実際問題としてそうも言っていられない.
自分の頭を司令塔にして,なるべく柵の力でなく物事を動かして行こうとするなら,
健康な頭を持っていることが,大切なファクターになってくる.
とにかく今は,体重がありすぎる.
まだ読んでいないと言ったら,親友が,Book 3を送ってくれたので,読んだ.
日本でどれくらい話題になったりしたのかは知らないし,
Book 1, 2にしても,友人から借りて読んだきりなので,記憶は曖昧だ.
(こちらでは日本語の本は本当に貴重品なのだ.それが実務と絡まないならなおさら.)
Book2までの読後感で,『1Q84』は,久しぶりにとてもいいなあ,と思ったのを覚えている.
力作だ.本気だ.真向勝負だ.そういう感じ.
物語を紡ぐということ,
当然村上春樹にとっての物語を紡ぐということは, 生きることそのものと直結する営みである.
何かに縛られているということ,誰かの物語に飲み込まれてしまうということ.
それは,簡単に,頻繁に,起こるということ.
その呪縛を破って先へ進むということ,
自分の手で,自分の世界を作るということ.
自分で物語を紡ぎ,それを信じることで補強していくということ.
人は,概ね自分の見たいものしか見ないので,
私にそう見えたということは,
今の(その当時の)私にとってそういうことがキーだったということである.
さて,時間をおいて,Book 3を読んでみた.
...これは,必要だったのかなあ....
青豆がひきがねをひかなかったのはよかった.
牛河さんに対するあわい愛情のようなものも,微笑ましい.
けれど,天吾と出会い手を握ることで, 世界から抜け出したりできるものなんだろうか.
タマルや老婦人や牛河さんに欠けていたもの.
子供をもったことのある人なら,
別の言い方をすれば,
理不尽に他の何を擲ってでも守りたい何かをもっている人なら,
Book 3はしっくりくるのかもしれない.
他人の干渉によって自分の世界が変わったり拡がったりするだけでなく,
自分が相手に積極的に干渉することに意味を見出す,
誰かを自分の世界の内部に丸ごと取り込む,
そういう時の,ものごとのあり方のようなもの.
今の私には(まだ)そういうことたちがテーマになっていないということなんだろう.
それが,まだ,だったら,いいな,とも思う.
先にも書いたように,ときめきの同僚はやめて行った.我々の職業に疑問を持ったので,もう一度大学で勉強し直したい,その為には30前に動かなくてはならないと判断した,とのことだった.それはそれで,一つの判断だと思う.我々の職業は味わいが出るのに数年かかるから,おいしさをまだ味わっていないのにやめてしまうのは残念にも思うけれど,しかし彼の父親も同じ職業だとのことなので,もっと長い期間従事した人からのアドバイスもあったのだろう.
折角仲良くなりかけていた人がいなくなってしまうのでさびしい,というのとは別に,結局自分は最後はどこに住むのかということを再び考えさせられる.
彼が動いた理由は,勿論職業上のこともあるだろうけれども,それとは別に,彼女がパリにいるから,とか,バーゼルが好きになれないから,ということが確実にあるだろうと思われる.イタリア語圏の人から見ると,ドイツ語圏は文化の違いが大きくて住みづらいのかもしれない.(と言っても大学はチューリヒだった訳だけど.)そういう街に対する嗜好性というのは,大切な要素だと思う.
私はどこに住みたいんだろう.少なくとも,車の必要がないところで,人の多い都会がいい.職業上の理由からロンドンをはずすとすると,街としてはNYも大好きだけどなんとなくあそこで仕事をするイメージはないということを考慮すると,今のところパリかベルリンかな,という気はしている.ただ,パリもベルリンも空港が遠くて交通の便はそれ程はよくない.さらに,パリはフランス流をまた学ばなくてはならないから,どこかに勤める必要があるような気がする.
現実的に,人のコネクションがあることも大切だ.それ以外に,よいクライアントがいる,ということも.
そういう意味では,バーゼルは実は悪くない街ではあるのだけど,今の勤め先とバッティングしたくないということがあるとすれば,なかなかに難しい.
更に,一緒に会社を立ち上げる人を探さなくてはならないしなあ.
彼の最後の夜,数人で花火をあげた.
そういう小さなことの記憶が,少しでも彼の未来への後押しになったらいい.