
2008 Herbst -
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Oからメールをもらう.
私の友人には,本当にうれしいときに,うれしいと言えない人が結構いる気がする.
嬉しいという言葉を遣うことすら躊躇われる程に,その気持ちが真実の時に.
それは決して素直じゃないということではなくて,とてもとても正直なのだと私には思える.
そういう友人が,そういう彼女が,あまりに愛おしくて,泣いてしまいそう.
よかったね,そういう人と出会うことができて.
きっと時間がもう少し経ったら,今口で言っているのとは違う風になって,
あまりの幸せに信じられないような顔をしているあなたが見られるのかもしれない.
それは,とても素直に,羨ましくて,嬉しい,未来予想図.
ワイングラスメーカー
Ridel オーストリア
Baccarat フランス
Zwiesel ドイツ,schott zwieselというのが耐久性の高いグラスのライン,そのアッパーラインもある
赤白の違いだけでなく,葡萄の産地によっても形状を使い分けていく
包丁メーカー
Zwilling Henckels ドイツ,双子マーク
僕らは繰り返す
この場所を繰り返す
光る一つの星と宇宙となり 重なり輝くために
僕らはこの場所を繰り返す
君があまりに素敵だから
僕があまりに美しいから
恋の神はきっと 未来への鍵を
雲の隙間から落としてくれる
だから大丈夫
自分を信じて
僕を信じて
Tsuyoshi Dohmoto
インドで何を見たかったのだろう.何を見たのだろう.
エジプトとか,南米とか,そういうところへ行きたいと思っていた熱はインドに行ったら随分と満たされてしまった.
そういう場所で私が見たいと思っていたものは,ピラミッドとか滝とかじゃなくて,西洋の文明とは違う根拠を持つもの,私の中にある論理では解けない混沌,雑踏,人の営み,そんなようなものだったんだと思う.世界の色んな場所にあるそれぞれの混沌はそれぞれに違っていて,西洋の所謂文明化された場所なんてほんの一部だろう.そして,インドで見えるものと例えばアルゼンチンで見えるものとは,きっと違っている筈だ.でも,そこに対する興味は随分と薄れてしまった.
ひとつには,混沌というのが一筋縄ではいかない,と感じたからかもしれない.インドではどこまで行っても異邦人だった.勿論ドイツでだって異邦人だけれど,絶対に混じり合うことのない断絶.私たちはインドの人の生活を直に見るにははるかなはるかな努力が必要だ.ちょっとやそっと行って触れられるようなものではない.それは彼らの側に高く聳えている壁.旅行に行ったくらいでは,絶対によじ登れない壁.旅行者というのもその地域の重要な存在者であることを考えれば,それはそれで経済的にも意味があるのだろうけれど,それは私が求めているものとは違うようだ.
例えば,モラルのあり方の違い.道にものを捨てるのが当たり前であること.それを牛や犬が食べて生き延びていること.道端で小便をすること.相手によって値段を変えること.お金など大切でないと語ることと,それをどこまで信じているのか不明であるところ.信心深いようでもあるし,宗教を金に換えることに躊躇いがないようでもある.インドで私が感じた悲しさは,貧困などではなくて,誰かを信じることの難しさだ.誰の善意も,たまたまそれが金銭関係に及ばなかっただけかもしれない,と漂わせているところ.
日本人は働き過ぎて「人間的な生活」を失っており,自分たちはこれから発展するにしても感情を失わないで発展したいのだ,と言う人がいた.否定できないけれど,私たちのワーカホリックは,私たちの感情から生まれているのだ,ということは,うまく説明できなかった.誠意というものにとても重きが置かれるような,そういう文化に根ざしているのだ.
もう一つは,インドの人たちは,表面的にはみなポジティヴに見えた.多分,ネガティヴになるというのは,ある程度の贅沢なのだと思う.そして,私にはそれが大きな違和感なのだった.仏教を生んだ土地なのだから,本当はそういう哲学的な土壌もあるのだろうけれど,それは観光では目にすることが難しかった.わずかに過去の観光資源の中に想像するしか.きらきらした子供の眼の輝きよりも,落ち着いた思索的な大人の瞳を探している.
私の興味は,素朴なものよりも,洗練されたものの中にあるのだと思う.素朴さは自分の中に十分にあって,それを面白いとはあまり思えないのだ.オープンマインドになれと言う人々は,オープンした後に見えるものにどれ程の興味を持っているのだろう.開かれた思考と,オープンマインドは,どこか違うように思える.
ガンガーで祈り,生活をし,ガンガーで死にたいと思う人々の気持ちは,本当なのだろう.しかし,観光で行ってしまうと,どこかそれらが書割りのように見えてしまう.それは益々気持ちを薄っぺらくさせる.私の旅の同行者のように,そのまま受け入れ信じることができる人間であれば,もっと受け取れるものが大きいのだろうと思うと,自分の曖昧な捻くれ具合に残念な気持ちになるけれど,それはもう仕方がない.ガンガーでの信仰心だって,生の死体,それも沢山の,を見せつけられて,やっと信じる気持ちになれるほどなのだ.そしてそのリアルの為だったら,嘘だと半分感づいていても薪代を騙されてもいいと思う.彼らが他人の死すら観光資源に換えることを,若い人々のように,死者への冒涜,とは思えなくて,生きるということ,タフであるということを思うばかりだ.そういうサバイバルなタフさの現実は,私には大きすぎるのかもしれない.
人は見たいものしか見ない.人はその人の見えるものしか見えない.
様々に枝分かれしたものの洗練の先をそれぞれに理解することは,とても大変な作業だ.洗練というのは,何かを選んでこそ成し遂げられるものでもある.できうるならば,他を拒絶せずに視野に入れながらも,何か一本の洗練を.
勿論,インドには行ってよかった.インドの体感としての大きさを感じること,乾いた砂埃の空気を感じること.他の信仰に対しても寛容でありながら信心深くあること.日々を道に座りながら暮らす人々が沢山いるということ.確実に,自分の中の何かが拡がった.
万が一次にインドに行くことがあるなら,一つの場所に長くいるような旅にするだろう.多分そこで,ひどい疎外感を感じたりするだろう.
ジャニーズについて,せつせつと書いたりしているけれど,世間にはそれを気持ちが悪いと言う人々がいることも知っている.特に,本人の年齢がそこそこ高ければなおさらだ.
例えばモーニング娘。やAKB48好きなそこそこの年齢以上の男性について考えてみるとどうなんだろうか.
明らかに偏見でしかないが,彼らが彼女たちを見ているのは,容姿なのではないかと思われている.つまり,彼らは,女性を容姿重視で見ていて,しかも自分よりかなり若く人生経験の少ないであろう女性を好みとしている,と見られている.
そういうくくりにしてしまうと,詰まらなそうな男の人だな,と思ってしまう.
しかし例えば,彼女たち(残念ながら私は彼女たちの名前すらわからない)の個性を見て,グループ内でもうまく立ち位置をとれるように頑張っているな,若い女の子が手探りながら懸命に生きているのは素敵だな,とか,そういう目で見ているとしたらどうなんだろうか.
それはそれで,アリかもしれないとも思う.勿論私の守備範囲ではないんだけれど.
同じように,ジャニーズ好きな女性も,ある種のくくりで見られているんだろうから,気をつけなくてはいけないとは思う.
しかし.勿論これは単なる自己弁護であることを意識したうえで,だが.
ジャニーズタレントの方が,歴史も基盤も強いことで,より自由に個性が出せる,言い換えれば自分で考えて戦略を練らなくてはならない要素が強いようにも思われる.女性のアイドルグループは,どうしてもバックのプロデューサーの影が見え隠れする.そして,グループ内での関係があまり良好でなさそうなイメージがある.
そもそも,仲の良い女性というのは,一緒にきゃっきゃしているだけのイメージが強くて,残念だ.女性同士のしみじみとするような信頼関係,というのは,見られないのだろうか....
それは,一般的にまだ,女性が自分自身で人生を築いていくのだ,という意識が男性に比べれば低いからなのかもしれない.
勿論,これは跳ね返って,自分の周囲の人間関係の問題でもあるのだが.