
2008 Herbst -
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青豆の最後,ゴムの木のこと.
青豆は,10歳のときに自分で証人会から抜け出したが,それでもお祈りの言葉を事あるごとに唱える.老婦人のカルト的考え方にも,比較的無反省に参加してしまう.ストイックに身体を鍛えるのは,ともすれば,自分を規律で縛りたくなる傾向を表しているかもしれない.(それ自体は,必ずしも悪いことではない.善悪はつねに入れ替わっているのだし,その「信じる」力によって実現されることも多々ある.青豆が魅力的に映る人だってたくさんいる.)彼女は比較的,信じる力が強い人間なのだと思われる.勿論それは証人会の両親を持つという出自の影響もあるのかもしれない.ドウロのないところは歩けない.何かを信じなくては生きていけない.
彼女が引き金にかけた指に力を入れるとき,リトルピープルが周りにいる.ほうほうとはやしている.彼らは青豆の弱さ,空白につけこんで自殺に追い込んでいるのだ.
なんのために?リーダーは,青豆がリーダーを殺せば,リトルピープルが天吾を殺す意味がなくなるのと同時に,さきがけの組織が青豆を追って殺すだろう,と預言した.素直に考えれば,リーダーを殺された狂信的なさきがけ信者が,物質的に青豆を殺すのではないかと思われるのだけれど,実はリトルピープルが青豆を殺したのではないか.リーダーの言葉(約束)自体が,一つの物語となって青豆を支配し,彼女はその物語に沿って幸せに死のうとしているのではないか.
ゴムの木は,高速道路の非常階段を降りるときと,終盤の2回出てくる.その描写は哀れなものなのだけれど,妙にあたたかみがある.(そう思ってしまうのは,自分が東京で一人暮らしをしていた時に,哀れなガジュマルを育てていたから?)それは,青豆が天吾の物語の世界1Q84に入り込む入口に置かれていた象徴的なものであり,青豆を動かそうとするいかなる物語(老婦人の物語とも,リーダーの物語とも)とも無関係な,独立した彼女が選びとった記憶である.そもそも買いに行った金魚は,閉塞した空間の中を知らぬ風に泳ぎ回る様が,少女の頃の彼女を思い起こさせ,買うことができなかった.それは多分,今の彼女にも共通する部分があるのだ.そして,その対照としての,閉じ込められていないゴムの木.孤独な部屋に残してきてしまった,あわれなゴムの木.
ゴムの木のために泣いて泣き終わり,自分を立て直した時に,言いかえれば,自分の物語を設定しなおした時に,公園の滑り台に天吾の姿を見つける.もう一度物語は土台を揺さぶられる.でも彼女は,天吾に幸せに出会う物語を俄かには信じることができない.怯え.そして恩寵は通り過ぎる.彼女は自分自身にこれでよかったのだと言い聞かせ,死ぬ決意をする.そして,1984年に戻る道はないのだというリーダーの物語を確認して,つまりはリーダーとの約束を補強して,にこやかに死んでいく.リトルピープルに見守られて.
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ふかえりは,青豆がこの世界(1Q84)のどこかで天吾をみつける,と言う.ふかえりが知覚し,天吾が受け入れるのだと.確かに青豆は天吾を見つけたけれど,この場合は天吾が青豆を見つけられなかったことに対して,心配しなくていい,と言っているので,実際に二人が「会う」ことを想定しているのだと思われる.
天吾は父親に向かって,彼自身の物語を語る.それは,彼自身の空気さなぎを作る作業.彼は,ずっとネガティブに捉えてきた自身の過去を受け入れる.そしてできた空気さなぎを目にした時,再び彼は怯える.母の戸籍を調べなかった時と同じように.青豆を探さなかったのと同じように.しかし今度は逃げない.その中には,10歳の眠っている青豆が入っている.それは,彼の物語,1Q84だ.天吾が青豆の名を呼ぶと,それは青豆にも聞こえる.遠い場所で.青豆の返事は,今はまだ天吾には届かない.
青豆は,天吾の物語の読者(レシヴァ)なのかもしれない.
はっきりとはわからないけれど,天吾が怯えを克服したことによって,1Q84という物語は書き変わるのではないか.原因と結果は常に錯綜している.青豆を探す手立てを持たなかった天吾が,強く彼女を探す決意をすることで,彼女が読者として天吾を見つけるのではないだろうか.
母親の記憶のこと.
天吾が母親の記憶の発作に見舞われるとき,手足が痺れ動けなくなる.しかし意識ははっきりしている.これは,リーダーや天吾がパシヴァと交わっている時とかなり似ている状況であるとも言える.それは天吾の物語のはじまり.
天吾が『空気さなぎ』のリライトをするようになってから,発作が起こらなくなり,天吾の中に自分に書きたいものが湧くようになる.呪縛が解かれたように.
何故なのか.
『空気さなぎ』は,ふかえりの記憶を固定し,リトルピープルに書き換えさせないための錨.
青豆との記憶と,母親の記憶の,違いはなんなのか.記憶はその人の物語の端緒である.
母親の記憶は,原則として母親を失うことへの恐怖や父親への憎しみと結びついている.それに対して,青豆の記憶は,原則として愛に結び付いている.
2つめの月のこと.
緑色でこぶりで不格好.勿論2つの月は青豆の乳房とも呼応しているけれど,2つめの月は青豆そのものだ.そして,2つ目の月の描写をつくったのは天吾である.つまり,『空気さなぎ』の世界へ青豆を召喚したのは,天吾である.(もう一つ天吾の作ったのは,空気さなぎの形状の描写.)
『空気さなぎ』をリライトし,月の描写をする過程で,自分の家庭環境の文脈(あまり好ましくない)とは関係のない青豆の記憶を無意識に思いだしたことによって,自分の唯一の出自の補償(不安とセットの母親の記憶)に縋らなくてもよくなった,ということなのだろうか.
パシヴァとレシヴァのこと.
パシヴァ=知覚するもの
レシヴァ=受信するもの
となっているけれど,その二つって違うものなのか.例えば,指先の感覚神経がパシヴァで,それを温熱感覚に置き換える脳細胞がレシヴァ,とかそういうことだろうか.ふかえりがパシヴァで,天吾がレシヴァということになっているが,つまり,ふかえりは目にしたことをそのまま天吾に伝え,それを意味のある形にするのが天吾の役割,ということだろうか.
パシヴァとレシヴァは二人でひとつ.一緒になって初めて物語を語ることができる.さきがけのリーダーはレシヴァだった.さきがけは,宗教という物語の強力な力を手にしていたように見えるけれど,彼にはパシヴァはいたのか.それはふかえりのドウタで事足りたのか.或いは,実の娘ふかえりを観念的にレイプすることによって一体化したから,それでいいのか.或いは,ふかえりのドウタでは不十分だったために,他に3人のドウタを作って後継者を残そうとやっきになっていたのか.リトルピープルは,ふかえりのドウタを使って,新たな空気さなぎを作って道を広げ,他に3人のパシヴァを作ったということだろうか.
最初のパシヴァは,ふかえりのドウタだ.それはふかえりがリトルピープルと作った空気さなぎ(物語)から生まれたもの.
パシヴァとレシヴァは,物語そのものと,その読者のような関係と言えるのではないか.
レシヴァはパシヴァと交わる時,身体が麻痺状態になる.それはつまり,まずは物語を読んで受け入れ.そこから始まる,といったようなことか.
読者と物語が真に心が通い合った時(合一),それは物語に対する観念的レイプとも言えるのかもしれない.
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猫の町の話.
オリジナルの猫の町の話では,主人公は失われてしまう.猫の町は失われる場所だ.主人公にあったのは,好奇心と恐怖.しかし,天吾は天吾の猫の町(千倉の父の療養所)に行って,失われず,むしろ自分を取り戻して帰ってくる.それは,天吾が失ったものが,自分の出生に関わる疑惑だったから,だろうか.彼は母だけでなく父も失う.(たぶん父はリーダーなのだろうけれど.)それは,彼の物語の端緒を失うことに他ならない.天吾は既に,母親の唯一の記憶のイメージを思い出さなくなっている.空白.
千倉から帰ってきた後,ふかえりは天吾に,なにかが変わったと言う.そして,オハライをしなくてはよくないと言う.そのオハライとは,天吾がふかえりと(観念的に)合一し,ふかえりが天吾にとって大切な記憶,つまり10歳の頃の青豆と記憶をありありと思い出し,天吾がその形を知ること.
つまり,彼の記憶の中で,書きかえることのできない錨を,もう一度取り戻すこと.
牛河は,天吾に母親の情報を与えてもいいと言うが,天吾は断る.牛河に与えられた母親の情報は,リトルピープルに作られた書き換えられた記憶の端緒となり,天吾の物語が書き換えられてしまうから.
リトルピープルは,空白を通ってやってくる.空白に,書き換えられた物語を与えることによって,その人自身の物語を損ない,たくさんの人を同じ物語の文脈へと乗せようとする.
空気さなぎは,その人の心にひそむ物語である.
(どちらも,紡ぐ,ものだ.)
1Q84年が1984年に戻ることはない.
月が1つになることはない.
ただ,1Q84年に,天吾が再び物語を紡ぐことによって,
青豆はどこかに命を得るのかもしれない.
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中盤までは不敵に描かれる老婦人も,さきがけのリーダーの前には萎んでしまう.どこにも絶対的な善はないし,だからこそ,あなたは正しいことをしたのです,と繰り返さねばならないのだ.老婦人もリーダーも青豆も,そのことを知りながら,自分の道を選択していく.その選択は,半ば予め定められた事項のように見えている.物語を紡ぐことは,もう一つの世界を自分の力で(空気から糸を取り出して)形にしていくこと.それは,もう一つの世界を現実にしていくことに他ならない.そしてそれを他者に公開するということは,自分の作り出した現実を他者と共有すること.『1Q84』自体が村上春樹の紡いだ物語であり,それを紡ぐ前と後とでは,世界は同じではない.
宗教(もちろんオウム事件から影響は受けているのだけれど)の力も,一つの物語である.確実に.死んだヤギから出てきたリトルピープルが作った空気さなぎによって,さきがけは急速に物語の力を得て宗教団体となる.天吾とふかえりは,それに対抗する物語を紡いだ.小説『空気さなぎ』に於いて,リトルピープルは必ずしも悪者ではない.ただ,ふかえりはドウタを拒否して逃げ出し,最後に自分一人で空気さなぎを作って,反対側への扉を開こうとする.ここで,ふかえりが紡いだ空気さなぎは,『空気さなぎ』のことだろう.何故彼女はドウタを拒否したのか.それは,彼女の形をした物語が自分とは別に動き出し,自分がそのつくられた物語(偶像)になってしまうことを拒否したのではないだろうか.例えば日常生活で,役割を与えられた時,時に人は自分の直接的な意志とは異なることを選択することがある.その内に,自分が本当にしたいことを見失ってしまうことがある.さきがけのリーダーは,正にその状態であるとも言える.ふかえりはその流れに飲み込まれてしまうことから逃げ出したのではないだろうか.
逃げ出して隠れて生きていたら.『空気さなぎ』を書かなかったら.ふかえりはずっと感情と言葉を失ったままだったろう.ひとが,自分を取り戻す,あるいは,自分の力で自分を作り出すために,必要なもの.与えられた物語を拒否した後で,もう一度自分として生きるためには,自分の物語を紡がなくてはならない.自分の空気さなぎを.
リトルピープルとは何者なのか.それは,主体の明らかにならない(人数の数えられない)流れのようなものだろう.誰も望んでいなくても戦争やテロリズムに導いてしまうような力.現代においては,ビッグブラザーのように,敵がはっきりと敵の形をとってはいない.むしろ,何が敵なのかもわからない.リトルピープルたちは,空気さなぎを,物語を作る.彼らは直接に手を下しはしないけれど,物語の力によって,現実に人を損なっていく.不安や鬱のように.
それに対抗できるのは,個人の物語なのだ,と村上春樹は言っているのだと思う.温かみのある,言葉で説明することのできない記憶のようなものこそが,大上段に構えてくる(そもそも,とか,人間というのは,とか,社会というのは,とかで語られがちな)大義名分のような物語に対抗する手段なのだと.その物語は豊穣な細部を持ち,ねじまきどりでナツメグがシナモンに語る動物園の物語のように,どれだけ話しても話尽きることのない物語だ.
村上春樹は,自分の職業である,小説を書くということ,ということについて,自分が小説を書くということで何をしているのか,ということを,彼なりにまっすぐなやり方で語っているのだと思う.
青豆が魅力的だと言っているひともいるけれど,私にとっては特別に魅力的とは映らなかった.彼女は巻き込まれる渦の中で,彼女なりの基準を作り,生きている.しかし,この物語における青豆の役割が,やはり私にはいまだ不明瞭だ.天吾との関わりに於いてははっきりしている.彼女は,一見カルトの形をとらないカルト(老婦人との関わり)に巻き込まれていく者の象徴,そしてその一人一人にも私たちと同じように物語があるのだ,ということを体現しているのだろうか.
興味深いのは,天吾が予備校の数学の教師である点である.数学のプロフェッショナルではないけれど,数学を愛し,その世界の豊穣を語ることができる能力を持っている.数学もひとつのカルトと言えるか?科学が一つのカルトであるように.
オダギリジョー演ずる謎の男の印象的なセリフ特集.
世の中は 浮かれ溺れて ナイル河
人生なめんなよ
(落花生をカウンターに並べ,たぶん冷奴を虫眼鏡で見ながら)