
2008 Herbst -
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図書館の階段の設計.頑張ると次の仕事が来たりする.
頑張り方がまだよくわからないけれど,ありがとうって言われると,やっぱり嬉しい.
帰りには,初めてドイツでコーヒー豆を買い,ジャガイモを買った.
昨日,今日とまともなものを食べていなかったので,おなかが痛くなるくらいぺこぺこで,
帰ってから,ジャガイモとなすとパプリカーノのトマトソースパスタを作って食べた.
おいしかった.
自分がさっくり作ったものが,おいしいと思えるのは,なんだか新鮮だ.
悪くないものだな,と思う.
ゆめ.
ロシアにホームステイのようなものをしている.それ程長期ではない.
やさしげなおじいさんとおばあさんの家.
海の近くの,鉄骨造のバラックのような,縦長の住まい.青いトタンの.
3人でどこかに出かけた帰り道.
車の後部座席に座っていて,駅の前で,いきなり前を走っていたタクシーの助手席に空間移動している.
とにかく焦って,まずは降ろしてもらう.
運転手さんは英語を話す女の人.
お客さんの男の人は,なんと日本語を話すので驚く.
カバンに財布が見当たらないので,歩いて帰ることにする.
ところどころに雪が積もった季節.
ロシアの雪は,寒過ぎて,さらさらしていて,全然雪玉にならない.
しかも,たまに雪を掘っていると,新鮮なアンチョビくらいの小魚が埋め込まれていて
それを爪で掘ってしまうと,うきゃ,とか言いながら血を出している.
2回くらいやってそれを学んだ後で,
路肩をよくよく見てみると,
氷に閉じ込められた魚を,下側からひな鳥が吸うように食べている.
ひな鳥の眼はまだ固まりきっていなくて,少しグロテスクである.
歩いていると,風景がいきなり下北沢のようになる.
実際に私が知っている下北沢の風景とは違うのだけれど,自分はシモキタだと思っている.
1階の広い空間を使って,何かの展示をしている.
それを歩きながら見るともなく見ていると,知らない女の人に名前を呼ばれる.
挨拶されて,名刺を渡される.
何故か鉄骨図面描きます,という肩書の入った名刺を渡していると,
鉄骨業者の男の人からも,名刺を渡されて,今度何か仕事を頼むかも,と言われる.
いや,本職は設計なんです,と主張すると,不可解な顔をされる.
途中でいきなりズボンのボタンをはずして,ズボンがずり落ちる.
前から来た人とすれ違うときにちょっと焦るが,
長い黒か紺のコートを着ているので,事無きを得る.
また歩いていくと,なんとか見慣れた(と思っている)ロシアの風景にたどりつく.
あそこが家だ.
手前の右側の高台で,
何かの音楽の演奏をしていて,それが終わって,演奏者が曲の説明をしている.日本語で.
自分の左側を歩いていた家族の男の子が,かわいそう,と英語で言う.
家の建物に着いて,中の廊下を歩く.
時々回転柵のようなものが付いているのだけれど,
普通とは逆に,普通は高速回転していて,人が近づくとゆっくりになる.
それであわあわしていると,通りがかりのおじさんに,もっと落ちつけ,と叱られる.
次のドアは大きくて,私の背ではぎりぎり届くか届かないかのところにノブが付いている.
それを開けようかとしていると,少年が,実は入れ子になっていた小さなドアから通っていく.
周りにもおじさんがやってきて,
ちょっとあわあわしていたら助けてくれるかなー,と甘い考えをちらっと起こすけれど,
誰も助けてくれないので,ジャンプしてノブを開ける.
やればできる.
行きすぎてしまって突き当りのドアから外に出てしまうと,そこは海だ.
崖のようになっていて,右下のところでは,こんな時期なのに,水着姿でお茶をしている人たちがいる.
この寒さなのにすごいな,と思う.
常に,財布と携帯電話と何かもう一つさえ持っていれば大丈夫,と唱えている.
色々ふらふらしたい気持ちはあるけれど,
とにかく礼儀として,おじいさんとおばあさんのところにできるだけ早く帰って
安心させなくては,と考えている.
写真に写っている自分を見ると,予想以上に楽しそうで,
なんだか照れくさいような,ほっこりした気持ちになる.
写真に写っているBを見ても,なんだかほっこりした気持ちになる.
なんだか普通に,今度実家を訪ねる話が始まっている.
こんな風にいろんな物事は進んでいくんだろうか.
それはそれで,いいのかもしれないなと思う.
ものがたり,のもつ力.
青豆は,天吾のものがたりの中にいる.
それは,10歳のときに,青豆が天吾に手渡したパッケージから生まれたものだ.
細部まで詳細に描写すること.
ものがたりを語ることによって,記憶を書き換えたりしていくこと.
記憶こそが,生きているということ.
誰かと話すということ.
誰かといるのは,原則的に億劫だ.ひとりでいたいという欲求が強い.
ひとりで何をするかと言われれば,何もしない.
それでも,誰かといる時には,最大限のハプニングを楽しもうとするから,
結果的にものごとを動かしていく力になるのは,そういうときだとも言える.
ともだち.
どこかに行った時に,訪ねることができる人,のことだろうか.
ともだち.
私の大切に思う人たちは,特別連絡をしあわないタイプの人間のようだ.
それでも,彼らが生きているということは,何某か私の心をあたためてくれる.
「ぼくもそういう人の一人になれたってことなのかな」と言っていた彼は,
残念ながら?そういう立ち位置とは違うようだ.
最早,ぎりぎりした痛みは使い古されてしまって,ぱさぱさとした触り心地になった.
他の,かつて好きだった人たち,に近づいているようにも思える.
当時の感情の感触は,今になってもリアルで鮮明だけれど,
その対象は今はどこにもいないのだということを,身体がやっと理解したようだ.
そう,Mに対するのと近しい感情かもしれない.
ともだち.
20世紀少年のともだちは,一緒にあそんでほしい,と言っていた.
今の私は,孤独に対する感覚を殆ど失っているようにすら思える.
それは,孤独に対する耐性ができたというのとは違うようにも思える.
かつては自分を外した人と人とのやりとりを苦しい程切なく思ったりしたけれど,今はそういう感情もない.
そもそも遠くに来たのは私の方だし.
ある意味,誰ともしっかりしたラインでつながっていないとも言える.
それがいいことなのかはともかくとして.
今の段階では,Bだけは別だ.
彼は,ぬるま湯のような,ひだまりのような,心地よい存在である.
一緒にいて,あまり苦にならない.
それでいいのか,という疑問は常につきまとうけれど,
少なくとも特別であることは否めない.
一瞬だけちょっと素敵だなと思う人に出会うのも心楽しい気もするけれど,
そういう特別さは,結構大事にしたいと,思っているようだ.
しかし,他者のないところに発展はない気はする.
面白いものだ.他者との回路を開くように動いてきた結果,
むしろ他者との関係が希薄になっているようにすら思える.
他者というのが,雲のようなかたまりになって,一人一人の顔を失ってきている.
昔よりも,ずっとひとりきりな気がする.
そしてそのことがちっとも苦痛ではなくて,単なる当たり前の事実にすぎず,
問題はそこでどのように動くか,にシフトしている.
もしかしてそういうあり方って,
若いころの自分が,あまり好ましくおもっていなかったことかもしれないなあ.